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王の庭2(下)
2009.05.19(Tue)
 男は後に、荒廃しきった国を一時期さらに殺伐とさせ―
そして、ほぼまっさらになった母国に、新しく国家を造りはじめた。
近隣諸国が手の出せないような強固な結界を造らせ、荒野だった村跡を守った。そしてそこに石造りの堅牢な城を建て、国の要とした。
わたしは男の片腕であり頭であり剣であり、心臓だった。男が望んでも男の周囲にいる人間が実現不可能なことは、全てわたしがやってのけた。わたしは怪物であり、神であり、守護者だった。
全てを叶える存在として仕える。その報酬として得たものは―
一人の男の、心だった。
多忙を極める日々の中でも、男と過ごすことは楽しかった。揺るぎのない意志を持つ王として、名を馳せた姿とは裏腹に、男は衆目のないところでは実に人間らしい弱い生き物だった。
矮小で、暢気で、そのくせ臆病なところもあり…たやすく手折れてしまいそうな若木のようだった。
わたしはその若木に、見とれていた。美しく醜いその姿の中に、やはり淡くまたたく光が揺れているのを見つめていた。
人間の傍に居ることで、わたしは触れることさえ出来そうなほど近くに、光を感じることが出来た。
―まるで自らも、光を放つ生き物であるかのように―錯覚した。

 城の結界は、すでに完全なものとして機能するようになっている。
男は、その最奥の病の床で日々の殆どを過ごすようになった。わたしにはどうにも出来ないことだった。
何故ならこの男は生来、一切の魔力から干渉を受けることのない存在であったからだ。男は自らがそのような体質であることをずいぶん後に知ったようだ。わたしもそれを聞き、納得した。
あの荒野でわたしを見つけることが出来たのは、確かにこの男だけであったのだ―と。
そして、魔から隔絶された血脈は、次の世代にも引き継がれている。その血をこの国は王族の証として崇めた。
絶大な魔力を持つ魔物をも飼いならすことの出来る、特別な血を持つ王の一族。
幾重にも紗のかけられた寝台に、一人の老人が横たわっている。もはや十分な水気を維持することの出来ない肉体。病巣は緩やかに―しかし確実に、男を蝕んで捉えていく。
…あと数刻もすれば、この男は息絶える。
わたしが寝台に近づくと同時に、王は人払いを命じた。大人しく下がっていくところを見ると、彼らはこの男はまだ生きる筈だと、思っているようだった。男の光が弱々しく縮む姿を見れば、その命の短さは知れた。医者たちは、この光を見ることが出来ない。
「―おまえ、か。珍しいな」
喉に砂でも食んでいるような、しわがれた声だった。
「今日は幾分、顔色が良いようだな」
そう言ってやると、男はかすかに笑ったようだった。
「おまえでも、そのようなことを言うのか。ひとらしく、なったものだ」
「そう、だろうか」
「ひとのように余計な気配りをしているぞ。…私はもう、あとわずかの身だ。己が分かっておるのだから、嘘など要らぬよ」
「そうだな。お前はもうすぐ死ぬ」
「ああ…」
男の声が途絶える。少しの話をするだけでも、呼吸が乱れるようだった。
「…おまえは…約束通り私に力を貸してくれた。何を成すにも、私はおまえが傍らにおらねば果たすことが出来なかったであろう。…礼を言うよ」
深い声だった。病に伏してからは昔の声音がすっかり乾いた砂のように変化してしまったのに、その感謝の言葉は瑞々しく響いた。少し、胸が痛む。
「わたしは己の好奇心を満たすためにお前の傍に居ただけだ。確かに、お前は約束通りの面白い人間だった」
「ふふふ…人と暮らすことも…悪くはあるまい」
「そうだな。悪くはなかった」
悪くはなかった。妄執も欲望も嫉妬も羨望も、憤怒も呪詛も。わたしの周囲をまとわりつく怨嗟の澱みなど、この男がくれた感情の渦に比べれば何ほどのこともない。目にしたことのない環境。人々の姿。一人の人間としての、生きる姿。
「魔物扱いをされて、さぞ腹が立ったろうにな」
男の目が悪戯っぽく光る。この男はよくこうやって冗談を言う。初めは全てを真正面から受け止めていたわたしを面白がり、後には上手く冗談を返すようになったわたしを面白がった。
光がみるみるうちに弱まっていく。医者たちはまだその気配に気付いていないようだ。
…死ぬ前には、一族の者に囲まれていたい筈だろう。そう思って人を呼ぼうとすると、手に温もりを感じた。乾いた男の手だった。
「構わない。私は、妻子とは一生分満足に過ごしている。病に臥してからはずっとそうだった。病も、無駄ではないのだな。
今話したいのは、おまえだ」
「…わたしと、何を話すのだ」
「おまえは、私が死んだらその目を閉じるのか?」
返答に詰まった。男の病が回復することはもうないのだと分かってから、ずっと頭の奥にこびりついて離れない考えだった。
病床の男の隣で。王の代理を務めるべく、王妃と王太子が政務をこなしている傍らで。
わたしは、目を閉じるべき時を迎えつつあるのではないだろうか―と。
「そうだな。そうするかも知れない」
「…やはりか…」
まだ私の腕を掴んだままの手が少し強まる。
「わたしは永遠を生きるものだ。目を閉じたとて、また開きたいと思えばそう出来る。今もこの先も、わたしは何も変わらぬ」
「そうだな。―しかし私には…おまえのその姿が、せつない」
「切ない?」
「…おまえはまるで籠の中の鳥だ。自由で、全てを持ち、また全てを持たない。
けれど、いつまでも終ることのない命は…おそらく、苦しいものだと思うのだよ」
「…そんなことはない」
「だと、良いのだが。私はおまえが、己は幸せだと思っていてほしい。だから、その永遠の命が苦しいものだとは思いたくはない。…しかしどうしても、おまえを見ているとそのように思えてならないんだよ」
弱々しい息の間にそんなことを言う。
…否定をしようとして。
返すべき言葉がわたしの中にないことに、驚いた。
否定も、肯定も、出来なかった。
生も死も、わたしにとっては同じことだ。その中で幸福など。喜びなど。見出してもそれは一瞬のきらめきでしかない。
―この男のように。いずれは、手の中からこぼれ落ちてゆく。
「本当はな。私と一緒に、おまえを何とかして殺して、連れてゆく方法をずっと考えていたよ。ふふふ、死の床というものは恐ろしいな。自分の死よりも、お前を殺すことばかり思うなど。
…おまえにも、人と同じ、終りある一生というものを与えたかった。…あるいは、死の恐ろしさゆえの道連れがほしかったのかも知れないが」
「…ふん」
「考えても考えても、憎たらしいことに。おまえがいつも生き残る想像しか出来なくてなぁ。それだけが、心残りだ」
「不穏なことを考える老人だな。穏やかそうな顔をして、お前は昔から恐ろしい男だった」
そう、この男は柔和で平凡な姿の内に、残忍とさえ言えるような刃を抱いていた。
戦い、守り、造る。それがこの男の一生の、大部分を構成していた。
わたしの力を持って他国を退け、その間に砦を設けた。そして砦を拠点に国中に侵入していた敵国の兵士たちを殺戮し、国土を血にまみれさせることで自国を治めたのだ。
わたしはその一部始終を男と共に行って、体中に血潮を浴びて死を味わった。
それを思えば、わたしは確かにまごうことなき魔物だ。
魔物は、半身を失えば死ぬだろう。
―そう出来たら、どんなに幸せなのだろうな。
「…面白い男だ」
この胸の内を全て見せることも伝えることも、この男だけには出来ない。全てを見せても、後悔などしないであろう相手なのに。
魔力など何の役にも立たない。そう思わせてくれる人間は、目の前の男ただ一人だ。
「ふふふ…」
「ふん」
「…おまえは、己のこころのままに居れば良い」
「分かっている」
この男のために、わたしが出来ることはたった一つだけだ。共に死の淵へ行くことが叶わないのなら、わたしが選ぶのはそれしかなかった。
「もう少し、ここに居ようと思う」
すでに閉じられていた男の目が薄く開いた。
「…何を」
「お前の傍に居るのはとても、楽しかった。人というものは面白い生き物だ。心に囚われていて、ちっとも想像通りにはならない。…お前の息子も、なかなか面白い生き物かも知れないからな」
「…守ってくれると言うのか」
「…わたしは、お前が一生かけてくれたものに値するようなものを、返すことが出来ない。お前にはそれを待つ時間もない。ならばお前の息子に、礼をしても良いだろう?」
男のしわがれた口から、緩やかに息が吐かれた。その息はわたしには、さらさらとこぼれ落ちる砂丘の砂のように視えた。死臭とは、そのような形のものだった。
「…イリアに、責められるのは辛かろう…」
男は愛妻家であったが、同時に一生妻を裏切り続けてきた。わたしという存在のために。
どれだけの時間を費やして家族という形を作り上げても、この男の心は完全には王妃のものにならなかった。男の心の片隅には妻―イリア以外の存在が居た。
イリアは可憐で賢く、王妃となるために育てられた娘だった。それ故に若かった王妃は一時、恐ろしいまでの嫉妬に狂った。心の内に別の女が居る王に。その女をどうやっても削除することの出来ない己に。身も心も全て、王の物になった魔物に。
―それを、長い時間をかけて、己の自尊心で押さえつけて王妃は美しく花開いた。
王妃イリアとわたしは、距離を保つことが必要だった。
この男が死ねば、その均衡は崩れるだろう。王妃の心は乱れて、再び狂うかも知れない。
…それでも、構わない。
「わたしには意味のないことだ。王妃はわたしを“飼う”ことは出来ない。わたしは、己を使う者は己で選ぶ」
「そうだったな…ならば、良い…」
この男以外に、わたしの王は存在しない。
いつでも、そう思ってきた。守るべき男。傍らに侍るべき存在。この男以上の王は、わたしにはもう二度と現れはしない。瞬きの間に、男はそんな感情を、わたしにもたらしてくれたのだ。
ならば。
「気が済むまで、お前の子孫を守ってやる。それが、お前への返礼だ」
腕を握り続けている土気色の指を剥がし、両の手のひらで包む。すると、男が呆れたように笑った。
こればかりは仕方あるまい?わたしが頑固なのは、お前に似たのだ。
男はもう何も語らなかった。しばらくすると、光はゆっくりと音もなく、灰色と青に染まって薄れていった。
夕焼けになる直前の空のようで、美しいと思った。


男を見送ってから、ゆっくりと時を過ごした。
そして死にようやく気付いた周囲の者が騒ぎだす前に、その場を離れる。フラフラと城の中をあてもなく歩き、ふと中庭にたどり着いて足を止めた。
常緑樹と花の散りばめられた宝石のような場所。あの男が唯一、わたしへの“贈り物”だと言ったのがこの庭。
―ここには何もいらない。椅子もテーブルも生垣も、何も作るな。
そう命じられて、この庭は現在も飾り気のない緑そのままの場所になっている。わたしが、そう願ったからだ。
庭は美しかった。筒状に石垣の積まれた城の中央に、やわらかな光が降り注ぐ。その光が堅牢であるがために薄暗くなりがちな城と対比して、緑を眩く魅せる。
急に、このままこの緑に溶けてしまおうかという衝動にかられ―虚脱した。
わたしは悲しいのだろうか?
そんなことはない。死も別れも、常にわたしの周囲にあるものだ。
けれど虚脱感は全身を貫くようにそこにあった。何もしたくない。もう何も要らない。

「逃がさないわ」

背後から、女の声がした。振り向くと、王妃イリアが立っていた。
眦を血のように赤く染め、それでも頬は蒼白だった。気迫だけが彼女を支えているように見える。
「何ということをしてくれたの」
「わたしは何もしていない」
「何故わたくしを呼ばなかった!」
「…あの男が引きとめたからだ」
「…!」
吊り上った眉がさらにキリキリと跳ねた。
―言わずとも良いことを。
思わず自嘲する。この女には、つい苦しめるような言葉を吐いてしまう。
わたしはこの女を嫌いではない。誰よりもあの男を愛する者だと知っているから。あの男のためにイリアがどのような努力をし続けてきたかを、わたしは知っている。
…それでも時折、こうして皮肉な言葉でこの女を深く刺してしまうのは、…嫉妬だろうか?
「お前に、何が分かる」
女が一歩踏み出して、よろける。美しく繊細なドレスが汚れぬように、いつも細心の注意を払っている女なのに。純白のレースが草の露に染まっても、這いずるようにして近づいて来ようとしている。
「お前など高級娼婦のようなもの…!」
「…そうだな」
一方では、わたしはこの女に降伏していた。わたしは、あの男の妻にはなれない。あの男の子を成すことは出来ない。―この女のようには、あの男の傍には侍れまい。
「逃がさないわ」
イリアが、もはや様々な色に汚れたドレスから紅玉を取り出す。
「これはあの人の血。あの人の形見よ。お前にあげましょう。
…嬉しいでしょう?片時も離さず身に付けるのよ。お前は永久にここに縛られるの」
それはまさしく、鮮血の色をした紅玉だった。赤子の握りこぶしほどの、半球に近い玉。
わたしの目にはそれは、どす黒い煙を始終吐き出すおぞましい寄生虫のように視えた。強い呪い。女の飼っている魔法使いに作らせたのだろう。…これほどの呪いを使えば、呪を破られたときにはその魔法使いは、命を落とすであろうに。
黙って受け取った。その瞬間に、あの男の手が私の足に絡み付いた。女には見えないだろうが、わたしには見える。小さく弱々しい手。わたしがその気になれば簡単に振り払えてしまうような。
―あの男の血の力に強く呪いをかけたのだ。
虚しい執念だった。こんなことをしても、あの男はもはや二度と戻らない。
けれど王妃の心を責める気にならないのも事実だった。心のどこかで、わたしは王妃への共感すら覚えていた。
狂おしいほどに、あの男を愛することが出来た。
その境地は、わたしとこの女にしか分からないことなのだ。
「…無惨なことを」
「お前にはその義務がある。あの人の最期を看取ることを、妻であるわたくしから奪ったのだから」
女は泣いている。死体となったあの男の亡骸にも、しがみついて泣いたことだろう。涙など一滴もこぼれぬわたしの分まで、この女は泣いている。それで良い。
「お前はあの人とわたくしの子孫を永遠に守るのよ。わたくしが死んでも、リア王子が死んでも、その孫が死んでも。」
「…そうか」
「わたくしは死ぬまでお前を許さない。いいえ、死んでも許さないわ。」
身を引き裂くような激しい悲しみ。憎悪。その感情の渦が、わたしを縛り付ける。
―これもまた、わたしの望んだ―人の世界だ。


 王の死後、国には小さな内乱がいくつかあったが―王太子はそれを見事に収めてみせた。
その功績もあり、若木のような王太子は戴冠の儀を滞りなく終えた。あの男の玉座はすでに、新王のものだった。
美しい赤銅色の髪と青い瞳。白い肌も優雅な物腰も、全ては王大后から受け継がれた資質だった。あの男を思い起こさせるようなものは、そこにはない。
思い出して、何となろう?それは分かっている。
それでも、見慣れたこの玉座に。
薄暗い城内に。
あの庭に。
ふとした瞬間にあの男の姿が現れて、こちらに向かって愉快そうに笑いかけるのではないかと錯覚する。目が、探してしまう。そんな日々が続いていた。
しかしそんなものはどこにもない。
わたしに残されたのは、常に足にまとわりつく衰えた男の腕だけだった。
「きれいな玉だな。おまえの恋人からか?」
 物思いから我に返ると、新王は戴冠式の疲れを見せない好奇心いっぱいの目で、わたしの額に飾られた紅玉を見ていた。血の宝石は王大后によって、繊細な銀細工に縁取られた美しい額飾りに作り上げられていた。
口を開こうとすると、王大后が鋭い口調でさえぎる。
「それは先王からの賜り物です。亡くなる前に形見として贈られました」
形見としてーあの男はそんな丁寧なことはやらない。もしも本当の形見ならば、わたしは気兼ねなくこの場から消えるかもしれない。ふとそんなことを思った。
「父上が。―へえ」
それきり話は途切れ、細々とした儀式を終えると新王は退室の意を告げた。王が立ち上がると、諸侯は跪礼し、顔を伏せる。
王大后もそれに習い、わたしも膝間づこうとして―
ふと、新王がこちらを見ていることに気付いた。


「父上も隅に置けないな。こんなにきれいな愛人を残すなんて」


すれ違い様、小さく囁かれた。目だけが笑っていた。―あの男に、よく似ていた。
思わずくすりと笑うと、新王は小さく肩をすくめ、その場を去った。
「面白い男だ」
そう呟くと、耳に入ったらしい王大后がこちらを睨んだ。わたしは―笑った。
王の庭2(上)
2009.05.19(Tue)
その男に会ったのは、一面の荒野だった。

近隣諸国との軋轢は限界を迎え、答えの見えぬままにただ戦が繰り返されていた時代。
誰もが疲弊し続けていた。壊れるものは全て壊され、燃えるものは全て燃やし尽くされようとしていた。
その中で何かを作り出そうとする者がいたとしても、あっという間に踏みにじられ荒野へと変わっていった。

だから、もうこの世界には何もないかもしれない、と思っていた。


「君は、幻かな?それとも鬼かな」

話しかけられたことにまず驚いた。わたしは気配も姿も『力』を使って消していたのに。
この世界のどんな魔法使いにも見破られたことのない魔法を、この男はいとも簡単に破り―いや、初めからそんなものは存在していないかのように―話しかけてきたのだ。
「…鬼ではない。お前こそ、何者だ」
小柄で細身の、戦場では役に立たなさそうな奴だと思った。
身なりは一応簡単な装備をしているようだが、これで兵士とはとても思えない。
腰に皮製のベルトを巻き、そこに軽そうな剣を帯びてはいる。だが立ち居振る舞いが剣士のそれとは全く違った。多分こいつは剣をまともに扱うことも出来ないだろう。
せいぜいが旅の者だ。その程度の軽装。このような物騒なところで、男は酷く無防備だった。
「鬼じゃないんだ。残念、このへんに出るっていう赤い髪の幽鬼を見にきたんだけどな」
「確かにわたしは赤い髪だが。このあたりにもよく来るが、鬼となった覚えはないな」
「そっかあ」

「でも会えて嬉しいよ、君、とてもきれいだ」
そう言って男は笑んだ。
幸せそうで、何とも言えず甘いものを口にした子供のように嬉しげで―
目が離せなくなってしまった。


自分でもよく分からない存在である自分を、わたしはいつから『わたし』だと意識したのだろう。
この世界の生き物たちのように『親』という存在の居なかったわたしには、それを教えてくれる者はいなかった。ただ、知っていた。
ヒトを構成するものと何一つ異なることのない自らのからだ。それなのに、わたしは腐らない。そしてめったなことでは病になることもなく死ぬこともない。
意思を持って息を吹けばそこに花を咲かせることも出来たし、左手から小麦で出来た食べ物を生み出すことも簡単だった。けれどわたしにはそもそも食事さえ必要なかった。
わたしとは何か。何のためにひとの傍に居るのか。
…わたしは、何をすべきなのか。
分からなかった。だからそれが分かるまでは、ずっと何にも属さず何にも縛られることなく、自由にこの世界を旅していた。身を風に溶かして高く高く鳥よりもはるか頭上に空を舞い、この世界が丸い球体であることも知った。この丸い球体は土と緑と水で構成されており、その全てに不思議な淡い光がまとわりついていることを体中に感じた。
その光は目を眩ませるような激しいものではない。近くで見ても遠くから見ても、時折陽光に照らされた綿毛のようにやわらかく光り、そして消えた。
わたしはそれを、美しいものだと感じていた。
光の多いところは夜になれば歌が聞こえる。メロディにはなっていないけれど、鈴のような、硝子を叩いたときのような澄んだ音だ。
わたしは眠る必要はないけれど、生きていることに倦んだ時にはその旋律を子守唄にしながらそっと目を閉じた。すると不思議に安らかな心地になった。
世界が消えていく。

光がある一帯で弱まっていることを知ったのは、ひとが産まれてその寿命の半分くらいの歳になる程度の前のことだ。
そこでは煙や土埃が立ち上り、綿毛のようだったはずの光が一瞬燃え上がるようになっては突然消えていく。そしてそれが来る日も来る日も繰り返された。
旋律を楽しむために空に居たわたしにとっては、不思議でならなかった。
何があるのだろう?あそこでは、何が起こっている?
わたしは久しぶりに、地に足をおろす気になった。

「この小屋は僕の手作りなんだ。だからたまに板が落ちてくるけど、気にしないで」
そう言って案内されたのは、先程の荒野からさほど遠くない山の麓だった。
遠くはないが見えにくい場所にあるために、人に見つかりにくい。そして小屋の外側には、瓦礫の山に溶け込むように蔦が絡んでいた。
これならば、相当近くに来なければ、小屋があることは分からない。
中は狭い。狭いくせにこの国ではすでに貴重品になった、紙の書物が山と置いてあった。ずいぶん傷んでいたり焼けたような跡が残っているものもあるようだが、どれも背表紙には金文字が使われ、戦争中の今でなくとも高価なものであることが分かった。少なくともこれを所持する人物は、何の身分も持たない人間ではないだろう。
「どうぞ、この先の農家で分けてもらった葡萄酒だよ」
目の前の机に陶器の杯が置かれる。
「…葡萄酒とは、豪勢だな」
確か今のこの国では、他の果実酒と違い葡萄酒は高値で取引されるものだったはずだ。
「うん。果実酒を売ってもらうつもりで訪ねたら、すっかり仲良くなっちゃってね。乱暴な兵士たちに取られるくらいならって、秘蔵の葡萄酒の方を僕に譲ってくれたんだ。有難いよね」
少し口をつける。ふわりと果実の香りが広がった。毒の気配はない。
「それで、わたしに何か用があるのか」
誘われるままについてきて、用があるのかと尋ねるのもちょっと間抜けだが―興味があった。この男の口調には何ら含むところがなく、わたしに危害を加えるようなそぶりも気配も感じなかった。感じたところでわたしに危害を加えることは出来ないのだが。
戦場の跡地に赤い髪の幽鬼を見に来るなど、今の時代でなくとも余程のもの好きだとわたしでも分かる。
帯刀していた剣や装備を重そうに外すと、男は椅子に腰掛けた。
「え?用事なんてないよ。だって君は赤毛の幽鬼じゃないんでしょ?綺麗な人だったから、一緒に食事でもどうかなと思って」
暢気に笑った。
「…わたしは腹が空いているように見えたのだろうか」
「あっはっは、君、面白い。単に、食事をする相手が欲しかっただけだよ」
一人のご飯って味気ないだろう?そう言いながら、男は再び席を立った。

名前すら聞かないままに、数日男と食事を繰り返す。ひとの食べ物を口にすることが久しぶりで物珍しかったこともあったし、何より男の話は面白かった。
農民たちの暮らし。貴族の暮らし。傭兵の暮らし。この国の昔話。他の国の昔話。洗濯女たちの噂話。
男の話は尽きることなく、何者かと問う暇もないくらいに様々なことを知っていた。そしてその一つ一つを語るときのその目の輝き。―あの、空から見える光を見ているようで、目が離せない。
「それでね、王族や大貴族の乳母というのは本当は二人居るんだよ。一人は貴族の女性で、その人は乳をやったり世話をしたりすることは一切ないんだ。子供を育てる役目は貴族の女性じゃなくて、そこに雇われた村の女がする。面白いよね、貴族の子供たちは皆、村のお母さんたちの乳で育つって言うんだから。
お母さんたちには大抵貴族の赤ん坊と同じくらいの赤ん坊が居るから、その頃には二人で乳を取り合ったりする。乳兄弟って不思議と似ててね、大人になってもこっそり仲良くしてる人たちを何人も知ってるなあ。本当に兄弟みたいに仲がいいんだ」
「この国では身分のある者とない者との交流はほとんどないものと考えていたが」
「重要な立場の者であればある程、交流出来ないよ。だけど、乳兄弟は特別なんだろうね。公の場で会ったりすることはないけれど、私的なところで招いたり招かれたりして仲良くしてる」
「ふうん…お前にも乳兄弟がいるのか?」
男が小さな笑い顔を作った。
「うん。僕の兄弟は、もう死んでしまったけど」
そしてふと本棚の隅に目をやる。
「彼はとても優しい人間だった。本が好きで、難しいつづりを僕なんかよりたくさん知っていたよ。頭が良くて働き者でね、いつも彼にいろんなことを教わった。
民の暮らしは本当に大変だってことを、身をもって知っている人から教わることが出来た。僕にはすごく幸運なことだった。
こうやって一杯の葡萄酒を飲めることも、一つのパンを食べられることも、働く人がいるからなんだ。身分ある者は普段そのことを考えない。考えるきっかけがないからね。
生まれたと同時に、食べ物も着るものも不自由することがない。好きなだけ与えられるから、そういうものなんだって思ってしまう。本当は全然違うのに。
同じ世界にいるのに、違うところで生きているなんておかしいと、思うのにね」
「何故その兄弟は死んだのだ。病か?」
「いや、この戦争のせいだ。彼の住む村は焼け野原になった。…君と会った荒野のことだ。あそこは最初からああだった訳じゃない。貧しいけれどきちんと、農村があった。
あの一帯は地形的に戦場になりやすい場所だったんだ。早く避難をしてほしかったのだけど…」
「だけど?」
また男が笑う。人間は悲しくとも笑う時があることを、わたしは知っている。
「この本たちを、守ってくれたんだ」
「本を守る?」
男は、その背後に山と積まれた書物に目をやった。
「彼と会うときにはいつも、僕は本を持っていった。すごく喜ぶし、僕よりもずっと内容を理解してくれたから。だけど、こんなにたくさんあると、本は荷物になるだろう?
数年前に戦況がぐんと悪化したことがあってね。こんなもの放っておいて少しでも早く逃げてくれればよかったのに…本が焼けないように、上手く隠そうとしている間に、兵士たちが来てしまった」
「ああ…」
それは一方的な殺戮だったのだろう。農民に武器などない。鍛えられた兵士たちの剣は、他国の村を楽々と消し去る。
そして荒野だけが残る。
「後悔したよ。本なんて渡さなければ、きっと今も隣で話したり笑ったり出来たはずだろうってね」
ぽつりと呟いた言葉が平坦であるのでなおさら、痛々しいものを感じる。しかし顔を見れば、男はうっすらと笑んでいた。自嘲だった。
「だがお前の乳兄弟は、これらを与えられたことが喜びだったのだろう。命を危険にさらしてでも、お前から与えられた贈り物を大切に思っていたのだ。それは、命をかけてでも守りたいものがあったということではないのか」
沈黙が流れた。肌がチリチリとするような、冷たい静寂だった。
「…僕は、それを望まないよ。本なんて焼けてしまえばよかったんだ。彼が本をもう二度と読めなくても、僕は彼に生きていて欲しかった」
まっすぐな視線。わたしはそれを見返した。彼の鳶色の瞳は痛いほどに真剣だった。口元だけがまだ笑っている。
今彼が見ているのはわたしではない。他人というものの瞳の奥に、もう二度と会えない誰かを視ているのだ。だからわたしは目を逸らさず、彼の言葉を受け止めた。
「こんなことは二度と繰り返すべきじゃないんだ。僕は彼が居なくなってから、ずっとそのことを考えてる。
誰かの大切な人を奪ってまで得るものなんて、何もないことを皆知っている。知っているくせに、気付かないフリをして誤魔化している。そんなうつろな世界は、これ以上続けるべきじゃない。
そのことに気付いてほしくて、…この戦争を止めたくて、僕はここにいる。あがいて、いる」
小さなあずま屋を、彼は見渡した。声音が、何故か明るく響いた。
「こんなところに一人きりで、戦争を止める術があるのか」
「ないよ」
「ではお前がここに居る意味はないのではないか」
「そうかも知れない」
「…ではお前は一体、何をしているのだ?」
「待っていたんだよ」
「……待って、いた?」
肩口からさらりと垂れた赤い髪は、わたしがわたしのかたちを作り出した時から変わらないものだ。ある時はヒトのいう男であったし、子供であったり老人であったりもした。ヒトでないときもあった。その間も、この赤は変わらずに長く伸ばしていた。美しい色だと思ったからだ。朱でも橙でもない、この深紅が。
その赤のひと房に、男がそっと触れた。
何も感じないはずなのに、わたしはそのことにひどく動揺した。
…思えばわたしは、ひとに触れられたことはない。何にも捕らわれることなく、縛られることなく、この身は常に空気のように自由だった。
どのような障害もするりと通り抜けてゆき、この心は静かに凪さえもなく。
その心に、初めて感じたような気持ちだった。これを表現する言葉をわたしは未だ持たない。
「赤い髪の幽鬼は、恐ろしい力を持って幻を見せるという。僕は、それが現れることを来る日も来る日も待っていた。
僕はね、ここにある本のただの一冊も読みきれたことはない。全部数章で飽きて、兄弟に渡していた。そして兄弟が読み終わったら、僕は彼からその本のあらすじを話してもらっていた。
ここにある剣だって、さっぱり使えない。剣術の授業は一応は受けたけれど、結局最後まで練習相手から一本も取れずに終わったよ。
僕は頭が悪い上に、戦の役にも立てない。誰よりもそのことを知っているから、僕は僕に出来ることをし続けていた。
君のような存在を信じて、探して、見つけて…協力を求めるためにね」
ヒトとの交流があったのはこれまでほんの数度に過ぎない。明確な理由があってそうしたのではない。ただ単に、わたしは人の人生や歴史に関わることを好まず、観察しその姿を眺めることを好んだのだ。
人が生まれ、育ち、誰かと愛し合い、子孫を残し、そして死んでいく。その様を、ただ眺めていたかった。
幻など、見せたことはない。ただ、フラフラとこの荒野を散策しているうちに、幾人かの人に見られた。恐れた者が噂話を作り、赤毛の幽鬼となったのだろう。ただそれだけのことだ。
「…わたしが協力したところで、何の役にも立つまい」
男はニコリと笑んだ。
「それは分からない。僕たちはまだ、知り合ったばかりなんだから」
少しも疑うことを知らぬようなその目に、心がたじろいだ。珍しいことだと頭のどこかで思う。
「その知り合ったばかりの人間に、わたしが協力すると思うのか」
少し睨むと、男はびっくりしたように目を見開く。特別な色ではない。よくある色の瞳だった。
野良仕事には向かぬひょろりとした体躯。肌も髪も、陽に照らされた民たちとは異なるが、それも飛び抜けて秀でた姿ではない。凡庸な男―なのに、何故幾日も共に過ごしたりしたのか。
そう確かに―わたしはこの男に惹かれていた。
「協力してくれると思うよ。だって君は、とても退屈そうな顔をしているもの」

そうだ。わたしは生きることに―わたしが生きているものなのかどうかも分からないが―この世界をただ視ていることに、飽いていた。
人々を観察することは面白い。その一人一人に淡い光が宿っていることを見つけたときには、わたしはそのことに夢中になった。何故光が宿るのか。そしてそのことに人間たちは何故気付いていないのか。
こんなにも美しいのに、誰一人気付いていないなんて。
けれど、それもすぐに空しくなった。光は、あまりにもすぐに消えてしまう。わたしという存在とは違いすぎる。
瞬きをする間にも―今そこにあったやわらかい輝きは、消えていく。
悲しかった。光があっという間にどこかにいってしまうことが。儚くて、全てのものにわたしは取り残されているようにすら感じた。
もちろんそれはわたしの勝手な想像だった。けれど頭は理解していても、むなしさだけがいつまでもしこりのように残った。
だから、荒野を歩いてみたのだ。激しくまたたき一瞬の如く消えてしまった光の行く末を探して。…そんなものはどこにもないことは、分かっていた。
「君は、生きることが退屈そうだ。そろそろ、消えてしまっても良いとさえ思っている」
男のやわらかい声。中空を見つめたままその声に身をゆだねていると、確かにわたしはそう考えていたのではないかと思えた。
「消えることは君にとっては恐ろしくも何ともないことなんだね。目を瞑ることと、同じ」
その通りだ。わたしは恐らく、もう二度と目を開かぬことを決めて目を閉じた瞬間に、存在を消すことが出来る生き物なのだ。
何故この男はこんなにも、わたしを理解しているのだろう…?
焦点を戻し、男の目を見つめると、平凡な男はにっこりと笑った。そのあどけなく、小さな光。
「だったら、その瞬きの時間を、僕にくれないか。民の命を救うことには興味がないだろうけれど、僕は君にもっといろんなものを見せてあげられるように思う。
こう言っては何だけど、僕は割と面白い人間だからね」
「…面白くなければ、どうする」
「その時はもちろん、君は目を閉じてしまえばいいだけのことさ」

何の惑いもなく言い放たれた言葉。ただそれだけで、わたしはこの男の下僕となることを決めていた。
まぎれも偽りもない―期待だった。
この男はわたしを、体感したことのない感情の渦の中へ投げ込む。そしてのたうちまわり困惑する私を見て、何も言わずただやわらかに笑むのだろう。
残酷で、柔和なまなざしのまま。

「良いだろう。―連れてゆけ」
美しい
2009.01.18(Sun)
 潔いまでに短い髪は、薄茶色に染められていた。
「カッコイイね」
と言うと、彼女はヘヘ、と頭をいじった。

流行の服を着こなす女の子たちから見れば、私たちは酷く野暮ったく見えただろうけれど、膝より少し上のプリーツスカートは彼女にとてもよく似合った。
女性らしいふくよかさをまだ香らせる程度にしか持たない身体。それを美しく隠し、同時にふわりふわりと風になびいては私たちが女であることを気付かせてくれる。

あおいは、少し前には長くて黒々とした髪を、腰までのばしていた。
それは男子たちを夢中にさせるにはちょうど良い武器で、彼女は髪をかきあげる仕草だけで誰かを振り向かせることが出来た。また、それを楽しんでもいた。
けれど、あおいが振り向いたうちの誰かと付き合ったという話は一度も聞かない。
だからこそ狩をする男子たちの恰好の獲物であったし、なかなか捕まえることの出来ない貴重な生き物のように扱われていた。
あおいの周囲にはいつも、スタイルも顔も一定以上の水準を持った男の子たちがいた。その中で彼女は、いつもどこか遠くを見ているようだった。

「わたしね、男の子は可愛いと思う。だけど、可愛いから好きになれないの」
隠したいくらいに白くてすんなりとした襟足をさらしながら、あおいが笑った。
「そう?私は、男の子ってちょっと怖い。可愛いのは女の子の方じゃない?」
「女の子?」
彼女が振り向いた。大きな瞳が本当に不思議そうに見開かれる。きれいで、思わず目をそらしてしまう。
「どうして。女の子は可愛くなんかないよ。自分と同じ生き物だから、彼女たちが何を考えているかがすごくよく分かるんだもん。
女の子は、怖い生き物だよ。だから、すごく美しい」
「怖くて、美しい?」
あおいがフェンスの前で腕を伸ばす。春は空が青すぎて、何か物悲しい気がして好きじゃない。それでも、私たちはこうやって屋上に来ることを習慣にしていた。
教室の中はほんの少し息苦しい。いろんな人間のいろんな感情が狭い箱の中でぶつかって、はじけて、そのうち歪んでいくような気がして。
だからときどき、こうやって空に息をしに行く。
もうすぐ予鈴の鳴る時間だろう。
「怖いの。だけど、そのアンバランスな心を必死に支えて、キリキリに張り詰めているところが、見ていてとても美しいと思う。男の子なんかよりもずっと、きれいな生き物に見えるの」
「…あおいの言ってることって、バラバラ」
あおいはにっこり笑った。髪を切った途端に周囲の男子たちが近寄らなくなったことを、喜んだ時みたいに。

「そう。だからわたし、女の子なの」

ベルが鳴る。次の授業は家庭科だ。作りたくもない皆揃いの柄のエプロンを思い浮かべる。
男子は青のギンガムチェック、女子は薄いオレンジの小花柄。あんなもの、成績のために仕上げたら即、捨ててしまうだろう。
「ねえあおい、今度の週末、布を買いに行かない?エプロン作ろうよ」
教室に戻って教科書と裁縫道具を取りに行くために、フェンスから遠ざかり始める。
どうせ身につけるなら、自分の気に入ったもののほうがずっと気持ちがスッキリする。

移動教室の席で一緒になる、気になる男の子のことを思い出す。
けれど目の前のあおいが私の誘いに頷くのを見ただけで、その幻は消えてしまった。
やっぱり、あおいはきれいだ。髪なんか、どんなでも構わないくらいに。
「何色にしようか」
「うーん。あおいは?」
「わたしは紺色にする。デニム生地で良いのないかな。縫うの、難しいと思う?」
「ミシン使えば簡単だよ」
「使ったことないんだよねぇ」
「じゃあ、教えてあげる」

扉を閉める。その隙に軽くあおいがキスをする。啄ばむような、優しくて悪戯っぽいキス。
クスクスと笑い合いながら、階段を降りた。
55.夜明け(下) ※BL要素のあるお話です
2009.01.12(Mon)
 目が覚めると、一瞬自分がどこにいるのかよく分からなくなるのが旅先での楽しみの一つ。
鈍く回り始めた頭の中で、ああ自分は旅行に来ていたのだと思い当たり、そのことに少し幸福感を味わう。
早朝の明るい窓に目を向けると、雨の気配の去った、穏やかな景色が広がっていた。
そうして、気が付く。―身体が、軽い。
この数週間の体調の悪さが嘘のようだ。気分も良いし、起きてコーヒーを飲んだら砂浜に出向いて散歩でもしたいくらいだった。
「うわー、俺って、すげぇゲンキン…」
呟くと、ベッドが妙に広かった。乃木が隣に居ない。
家の中に人の気配がないことが何となく分かり、一瞬戸惑う。
もしかして、先に帰ったのだろうか―と。
勿論そんなことはなく、『海を見てきます』というメモが、ベット脇のキャビネットに残されていた。
 男と―乃木と、寝た。
男同士の方法なんてものはよく知らないから、お互いを気持ち良く充たし合うことで終った。これもセックスに該当するだろう。だから―乃木と、セックスをした。
答えが欲しかった。触れ合って、自分の妙な体質が和らいだ。だったら、関係を持ってしまったら、どうなるのか?
キスの後に感じた、“もっと触れたい”という気持ちは本当だったのか?
その答えがコレだった。紛れもない―充足感。
誰も邪魔をしない場所で、ベッドの上で、海鳴りのかすかに聞こえる夜に、二人きり。
それが男同士。…なのに、すっかり幸せな気分に浸っている。
俺は、ヘテロってわけでもなかったんだろうか。水着の女の子には無意識にでも視線がいってしまうが、水着の男には間違ってもそんなことはしない。それでも、バイセクシャルと言えるのだろうか?
…乃木は、どうなんだろうか?

携帯のディスプレイを見ると、朝の六時過ぎだった。月曜は売上も少ないから、心置きなく臨時休業にする旨を店の入り口に張り紙してきた。ここからなら二時間ほど運転すれば帰れるので、開店出来ないこともないのだが、それではバタバタしてしまう。
乃木は夜からバイトがあるらしいので、余裕を見て三時頃には帰路に着かねばならないが、それまでは自由に過ごせる。そう思うと、ちょっと嬉しかった。
リビングに行くと昨夜放置したままだった夕食の残りや酒が、すっかり片付けられていた。おまけにトーストサンドと、コーヒーメーカーには良い香りのコーヒーが保温されている。ここを貸してくれた友人は古い付き合いなのだが、コーヒーにちょっとうるさい。だから俺が淹れたコーヒーは飲まない(ムカつく)し、ここにも良いコーヒーとメーカーを置いている。
それにしても、乃木って奴は働き者だ。ちょっとくらい休んだって、誰にも何も文句は言われないだろうに。あれは性格のもんかね。
シャワーを浴びてさっぱりしたあと、有難く朝食を頂いた。そしてのんびり二杯目のコーヒーを楽しむ。よく晴れた日差しが気持ち良いから、窓を開けてベランダへ出た。海はすっかり凪いで、昨日のようないい波は現れない。サーフィンをするには、昨日ぐらいのほうがちょうど良かったのだ。旅行中の雨も、こんなときには嬉しいものかも知れない。
 歳を取って街の喧騒から離れたいと思うようになったら―海の近くに住んでみたい。
潮騒が聞こえるような場所に小さなコーヒーショップを建て、そこで地元の人間を相手にのんびりマスターをやるのだ。そして、たまに店を半日くらい休みにして海に出て、波乗りを楽しむ。
今の店は気に入っている。ただ、あの店はオフィス街の裏通りにある。
開店当初こそ暇を楽しんでいるようなお客が訪れていたが、最近ではサラリーマンやOLにその場所が奪われている。回転率が良くなってその分売上げも増えたので、店としてはメリットのあることだろう。
けれどどうしても、時間に追われた人間を相手にする商売は、自分には向いていないような気がするのだ。
この土地も、結構好きだ。友人にこのあたりの物件を紹介してもらって、本当に店の構想を練るのも良いかもしれない。ここなら、あまりにも退屈なときは、車で二時間ほどで街に出ることも出来るのだから。
思いつきをまとめあげるのは楽しかった。ベランダから見える山側の、別荘と思しきいくつかの建物を見ながら、あのへんに建てたい、外観はこんな風がいい、メニューは今より少なくして、でもどれも海辺らしいもので―
などと考えていると、知らない間にカップの中のコーヒーは冷めていた。それを飲み干して、ベランダをあとにした。

 砂浜には、乃木以外の人間は誰もいなかった。このあたりは観光地でもないし、そんなに広い砂浜もない。だからマリンスポーツを楽しむ人間か、別荘でのんびりする人間か、地元の人間しか居ない。
潮の匂いというのは世界共通だと思う。どんな場所で嗅いでも、俺は学生時代の留学先を思い出しては懐かしい気分になる。
乃木は、砂の上にぽつんと座り込んでいた。コンクリートの階段を降り、砂を踏む音をさせながら近づいても―気付かずにひたすらカメラのファインダーを覗き込んでいる。時折シャッターを切っては、そのままの姿勢でまた巻き取って、構える。
何故だか、声をかけるのは憚られた。乃木は物静かだが、普段その静けさは乾いたものであって、存在感を主張したりはしない。
けれど、今は違った。少し―怖いくらい、乃木が集中しているのが分かったからだ。
じっとフィルターを覗き込んでいる―何かを探るように、ぴくりともせず。
独りで、空と雲と海しかない空間に、大切なものを見出そうとしているかのように。その緊迫感で、身体は緊張していた。俺もそれに引き摺られて、身動きが取れなくなる。
“カシャッ”
シャッターがおりる。すると、乃木も息をつく。
その繰り返しに、俺は見入っていることしか出来ず、ただ立ち尽くしていた。

…乃木という男の本質は、もしかしたらこれなんじゃないだろうか?
今まで俺は、コイツの抜け殻のようなものしか見ていなかったんじゃないだろうか?
そして―この週末、二人きりで、こんな機会がなかったら。
本当の乃木の姿を知ることは、一生出来なかったんじゃないだろうか…?

「…店長」
やっと集中が解けたのか、乃木がこちらを見た。俺は立ったまま軽く十分程はコイツを見ていたはずだ。すごい集中力だった。
もう、あの息苦しいくらいの目はしていない。
「よぉ、おはよ」
「おはようございます」
「片付けと飯、ありがとな」
近寄って、腰を下ろした。さっきまでは傍に寄ることさえ出来なかった。
「…良い写真、撮れたか?」
乃木はぎこちなく首をかしげた。
「…分かりません。こんな風に写真を撮れたのは、久しぶりで」
「こんな風って?」
「きちんと、その景色を気に入ることが出来た、というか…」
話している途中からもどかしそうな顔をする。
ああきっと、乃木には言葉では足りないいろんな考えや思いがあるのだ。その自分にしか分からない世界を、コイツのつたない言葉では、とても伝えることが出来ないのだ。
俺はニッと笑った。それを知る術を作ってくれた乃木の親父さんは、やっぱりすごいと思った。
「大丈夫。写真全部見せてもらったら、きっと分かるから。
言えなくてもぜーんぜん、問題ねーよ」
乃木がびっくりしたように目を見開く。その顔が可笑しくて、ニヤニヤしてしまった。
親父さんだけが、お前の理解者じゃないんだぜ。…きっと。
もっと、お前の世界は広くなるべきだ。俺だけじゃなくて、もっともっと広くなればいい。
乃木が一瞬、形容し難いような思いつめた表情をした。―した気がした。
目をそらして、海を見ながら呟く。
「…夜中に、目が覚めて。窓から外を見ていたら、急に、朝日が撮りたくなりました。
だからここに座って、どんどん明るくなっていくのを、撮ってました」
「へえ…同じ場所でか?」
「はい。このままでも、どんどん朝日は変わっていきました。青くて、白くて、…オレンジだった。すごくきれいで…店長にも、お見せしたかった」
真面目な顔でそんなことを言うから、思わず照れてしまうじゃないか。
「ははは。夜中からか…ん?夜中って、何時?」
「さあ…四時ぐらいでしょうか」
「四時!?」
俺が起きたのが六時過ぎ。そこから部屋で一時間くらい過ごしているから、コイツ少なくとも、二時間以上はここに座っていたのだ。
手を伸ばして目の前の横顔に触れると、一瞬手を引いてしまうほど冷えていた。コイツ、体温下がりすぎだろう!
「ば…バカお前、すげー冷てぇじゃねーか!」
乃木はもともと顔色のいい人間じゃない。いろんなバイトをして動き回っているせいか、キレイに日焼けはしている。けど人間ってのは日焼けしてもなお、その下の顔色ってものがある。
昨夜触れたときも―酒が入っているし興奮しているにも関わらず、俺よりもずっとヒヤリとした感触の持ち主で。それがまたしっとりしていてなかなか良かったんだが―そんなことは今はどうでも良いとして。
元々白っぽい顔色が、今はさらに青白かった。こいつはマズイんじゃないのか。
「ほら、立て。早く戻って風呂に浸かれ」
改めて見ると乃木はTシャツにパーカー、ジーンズを身につけただけの軽装だった。日中なら構わないが、夜中から一番冷える朝方にそんな格好をして、長時間海辺なんかにいるものじゃない。
引っ張る手もすっかり冷たくなっていて、氷を掴んでいるようだった。それなのに乃木は平然と連れられて、相変わらずの無表情なままだ。
―全く、コイツは。人のことには気が回るくせに、自分のこととなると何も気にしないんだな。
そこがまた、乃木らしい。どこかでそう思った。

 乃木をたっぷりの湯を溜めたバスタブに押し込んで(実際やったわけじゃないけど)、リビングで息をつく。
かじかんでほとんど固まっていた奴の手からもぎ取った一眼レフは、テーブルの上にそっと置いた。アイツにとっては、大事なもんだろう。
年季の入ったカメラだった。ところどころ、どこかにぶつけたのであろう跡や、傷が目に付いた。その分だけ、これは乃木の一部なのだと思った。
…取り戻してほしい。素直にそう思えた。
無表情で黙々と仕事する乃木も悪くはないが、今日みたいに必死に、たどたどしく何かを追い求めている乃木の姿を見ると…そのままずっと歩いていってほしかった。
何にも興味を持たずに生きることなんて、結局は生きていないのと同じことだ。
逆に、燃え尽きるほど何かを好きになって、ひたすら集中出来たなら。それが例えたった一日であったとしても―俺にとっては“素晴らしい一生”だ。
そうありたいし、周囲の人間でもそんな奴らは光り輝いて見える。
…例えそのせいで、すぐに消えてしまう人間が多かろうとも。
「いい顔、してた」
一人で呟くと、声に少し寂しさがにじんだ気がして、首を振る。
何かを追い求める人間は、やがてどこかを目指して去っていく。この年齢だから分かる。友人だった奴らは三十代になる直前から、バタバタと家族を持ったり、今とは違う場所を目指して―連絡を取ることが絶えた。
当然のことだから誰も責められないし、むしろその勇気が嬉しい。
けれど、そうなり始めた二十代後半は寂しかった。
どれだけ心を交わしても、人と人は一つにはなれない。いつかは離れていく―そんな日がくる。
―バカだよな。ガキの癇性じゃあるまいし。
自嘲すると、気持ちを切り替える気力も戻ってくる。切り替えの早さの分だけ、自分も大人になったのだ。
俺が成長するたびに誰かに別れを告げてきたように、誰かも俺に別れを告げにくる。それは寂しいことじゃなくて、嬉しいことなんだ。
しばらくすると、湯船から湯を汲んで流している音が聞こえた。
頭か身体でも洗って、流しているのだろう。
―面白い人間に会えた。
喫茶店はいろんな人間が訪れる。人と話をすることも、人のために食事の用意をすることも好きだったから、今の店をやることにした。
一つの場所にしばらく留まって、街を眺め人を眺めていること。今のスタイルを、俺は気に入っている。例えどこかの場所に留まり続けることで、誰かからさよならを言われることが増えても。
それで良い。だから生きることが面白くてたまらないんだ。
ひとときだけであっても、誰かと幸せな時間を過ごしたい。俺が恋愛体質なのも、きっとそのせいだ。
自分一人じゃ知ることの出来なかった世界を、もっともっと知りたい。
そして、何かに感動した瞬間を―すげー好きな誰かと、共感したい。

 乃木は結構長い時間、バスルームに籠もっていた。湯船で寝てるんじゃないかと心配になって、覗きに行こうかと一瞬思った。
バスタオルを首にかけて出てくると、乃木はやっぱり無表情で何も興味がないような顔をしていたが―それでも、どこか違っていた。
…目、だろうか?きれいな目をしていた。だから自然と、視てしまう。
「一晩で…お前、いい顔になったなぁ」
感心して言うと、本人は戸惑うように首をかしげただけだった。
こういうのは自分じゃちっとも分からないもんだ。
コイツには、恩がある。俺をこんなにも元気にしてくれた。人と向き合っていたい気持ちまで、思い出させてくれた。仕事もプライベートも、頑張れる気がする。
俺は、乃木っていう人間が好きだ。だから、いつかそう遠くない未来に―
自分が本当に目指す道を、見つけて進んでいってほしい。
きっと、その手助けが出来るはずだ。自慢じゃないが俺の友人知人のネットワークはちょっとしたもんだし、手助けの足がかりは今日、見つけることが出来た。
「乃木、まだフィルム残ってるのか?」
「え、はい。あと一本と、カメラに入っている分が」
「それじゃ足りないな。近くに店があるから、買ってやる。出る準備して行こうぜ」
「…?」
「このあたりはな、俺詳しいの。海岸沿いにドライブウェイがあるんだけど、お前が気に入りそうな場所山ほど知ってる。連れてってやるから、帰りながら写真撮れよ」
「…でも。それじゃ、店長は退屈でしょう」
「バーカ」
ニヤッと笑ってやる。俺はそんなに人が好い人間じゃない。
「退屈なんかするかよ。この超良い天気!海辺を俺の好きなだけドライブ!
そして隣には初エッチした相手!!」
乃木の顔が一瞬にして赤くなった。俺は爆笑した。
コイツ、普段はシモな話も平気で受け答えするくせに、自分のこととなるとおもしれーよな。
「俺は、お前が撮ってるとこ見るのが好きなんだ。写真見せてもらうのも、実はすっげー楽しみにしてる。だから、俺の楽しみが増えるように…山ほど撮れよな」
肩にポンッと触れると、乃木は嬉しそうに頷いた。それを見てたら、俺も勝手に顔がにやけた。ほらな、こんなに楽しいだろ。
こんな気分を味わえるんなら、人と出会ったり別れたりを繰り返すのも、悪くないだろ?

 頭をタオルドライした乃木が、着替えを済まして荷物をまとめる間に、俺は一夜の宿を発つ準備を整える。どうせこの別荘には、コーヒー好きでブルジョアな悪友に雇われている、管理人がいる。だからホテルのように散らかしたままでも、文句は言われない。
窓から光が差し込む。―良いドライブになりそうだ。
「でも、あの…店長」
「んー?」
「好きなだけ撮るとなると…フィルムが何本あっても足りません。オレ、そんな金ないし」
「…どんだけ撮るつもりだよお前。
いーよ、任せとけ。全部俺持ちだから。もう百本でも二百本でも!」
「いえ、そんな」
「今日は特別。何たって初エッチ記念日だし〜?」
「……そうですか。ありがとうございます。じゃあ出来たら現像代もお願いします」
「…お前、今ちょっと怒っただろ。へいへい、分かりましたよ」
そんなことを話しながら、扉を閉めた。
55.夜明け(中) ※BL要素のあるお話です
2009.01.12(Mon)
「乃木?」
我に返ると、店長がいつの間にか移動して、オレの傍で顔を覗き込んでいた。
「…あ」
「どーした。いくら呼んでも動かねえし、びっくりした」
「すみません。考え事を」
「ふうん」
店長の両腕が後ろから回された。二週間程前から、スキンシップを取ることで“彼女が一週間以上居ないと鬱状態になる”店長の特異体質を和らげることに成功している。最近ではこうやって触れ合うことも当たり前になってしまった。温もりに何の違和感も感じることがなくなって、むしろ―心地良くもある。慣れというのは怖い。
「俺さ。お前の気持ちはわかんねーけど、親父さんの気持ちはよく分かる気がする。
お前、何かほっとけねえんだよ。ぼーっとしてること多いし、何考えてんのかあんまりわかんねーし。だから余計に、お前の考えてること知りたくなるし、こっち向かせたくなる」
「…はあ」
「そのくせ、『週末に恋人』宣言するしさ。全然、わかんねー」
「それは」
「仕事のためだろ?けど、普通はさ。こうやって抱き締められたりすんの、仕事のためにまではやらねえだろ。しかも野郎同士で」
「…そう、ですね」
そのあたりは自分でもよく分かっていない。分からないから、考えるのをやめている。
「こないだのキスもさ。…あの時、お前どう思ってたんだ?」
「…よく、分かりません」
本音だった。正直なところ、あのときの感覚を思い出すと今も胸がざわつく。
酒のせいだったのだろうか。店長が吐息まで感じられる距離に近づいてきて、自分も抗えないものを感じて吸い寄せられた。
そのとき、店長が一瞬戸惑う気配がした。頭が真っ白になって―
気付くと、自分から唇を重ねていた。
「分かんねーのに、あんなことすんのか」
「酔っていたのかもしれません」
そう言うと、背中から回された腕がギュッと締まった。持っていたビールをこぼしそうになり、テーブルに置く。
「…店長?」
少しの沈黙。肉の焼ける音ばかりが響いた。食べないのなら、火を消さなければ。
「乃木。俺さ…あの時、ヤバかったよ。お前の携帯が鳴らなかったら、アレ以上のこと、やってたかも」
硬直する。驚いた。と同時に、そうかも知れないと納得した自分が居た。
自分も、スイッチが入っていた。もしも電話が鳴らずにあのまま見つめ合っていたら、多分―いやきっと、キス以上のことをしたいと思っただろう。
「あー、もう!!」
両腕がバッと離れた。振り向くと、店長は奥のL字型ソファに勢い良く腰を下ろし、顔を覆ってしまった。
怒った、のだろうか。何かイラつかせるようなことをしてしまったのか。
「…店長?」
「俺、本気でヤバいかも…」
顔が見えない。呟かれた小さな声が頼りなく聞こえて、気になった。
ホットプレートの電源を切り、新しいコップに水を注いで席を立つ。店長の隣に腰掛けて、水を差し出した。
「どうしたんですか。気分でも悪いんですか」
「…お前、すっげーニブい…」
「すみません」
ふぅ、と一息深呼吸をすると、店長の腕が動いた。
―抱き寄せられていた。表情はよく分からない。
「…あの…」
「ヤバいんだよ、もう。こうやって近づかれると。今、お前のこと…抱きたくてしょーがねえ」
「!」
「俺、そういうシュミないんだよ。お前もそうだろ?なのに、何で、こんな気持ちになっちまうんだろう。一週間考えてもちっとも分かんないんだ。―だから、今日答えを出しに、ここに来た」
ずっとモヤモヤしてんのイヤだしな、と呟く。
「答え、ですか」
「うん」
「答えは―出たんですか」
「多分。確認するけど、お前、前に言ってたこと、本当に良いのか?」
意味が分からなかった。
「何のことでしょうか」
「だから」
言い出すのを躊躇しているような沈黙が続いた。その中で、店長の顔が紅潮していくのが分かった。触れ合った片頬から、直接温度が伝わってきたのだ。
そして途中から、温度が分からなくなった。
「お前本当に、俺とセックス出来るのか?」
―オレまで赤面するようなことを、言われたから。


 クイーンサイズのベッドのある寝室を見て、この別荘の持ち主は本当に金持ちなのだと思った。男二人が横になっても狭さを感じないようなこのベッドが置いてあるのに、部屋はまだ十分な余裕があったからだ。世の中には余裕というものを持ち合わせた人種も居るのだ。
海のよく見える窓から、わずかに月明かりが届く。雨雲はそれほど厚くはないようだった。電気を点けず、腕を引かれるままにベッドに座り込む。
着ていたシャツを脱いでしまえば、店長の身体はオレよりもずっと鍛えられていることが分かる。何より肩幅があって骨格がしっかりしているし、ジムにでも行っているのか筋肉が均等についていて、全体的に薄っぺらいオレとは全然違う。喫茶店で背中を丸めて食器洗いをしているのがもったいない体格だった。
長い指が、喉から下へと滑っていく。冷たくはない。
「な、何かその…照れるよなぁ」
「…はい」
ヘヘ、と苦笑いをする顔が、緊張で強張っていることを知る。怖いのは自分だけではないのだと分かると、少しは落ち着いた。だから、オレからも手を伸ばした。
首を絡め取り、引き寄せる。少しの間をあけて―お互いから、キスをした。
一週間前は、触れるだけのキスだった。今度は、やんわりと唇を開いてみせると、舌を入れられた。
熱い舌だ。酒のにおいがするのはお互い様だったが、自分の舌との温度差に驚く。
「―ふ」
息があがる。動作のせいではなく、緊張と次第に抑え切れなくなってきた興奮のせいだった。次々と角度を変えて重ねられる唇に、すでになすがままになっている。
店長は、キスが上手い。…アルバイト店員としては、不要な情報だ。
「あ、ちょっと、てん」
キスに集中している間にも、店長の指先は器用に動いていた。
髪に顔、首筋から鎖骨。背中の肩甲骨をたどって腕をなぞり、戻って胸へと降りていく。
「待って、下さい」
「ん?何で?」
「あの、とにかくちょっと、…ぅあ!」
指がするりと、腹を掠めた。
「―――!!」
「の、乃木?ゴメン、何か痛いとこでもあんのか」
「―いえ。そうじゃ、なくて」
腹は、昔から弱いのだ。誰かに触られるだけで、飛び上がりそうになる。それ以外の場所は、くすぐられようがつつかれようが何ともないのに。
店長の動作が止まったので息を整えていると、向き合った顔が、ニヤリと意地悪そうに笑った。
「そうじゃなくて、何?」
「!!」
また同じところを触られて、息が止まる。
「乃木。言ってもらわないと、ダメなのかイイのか分かんねーんだけど?」
「そっ…そんな悪い顔で言われても」
「なあ、乃木。ココは、痛いのか?」
「うわっ」
「傷でもあるのか?どうして声が出るんだ?」
手のひらが執拗に腹を撫で上げてくる。動く手を止めようとしても、掴む前に思わず力の抜けるような刺激を与えられて上手くいかない。
だから逃げようとすると、腰をがっちりとホールドされてしまった。ベッドの上に座り込んでいる形では、力づくでもない限りこれ以上身動きが取れない。
「…くすぐったいんです」
仕方なく正直に言うと、店長は上目遣いでまたニヤリと笑った。人の悪い笑みだ。―接客中には絶対に見せないような。
その後も弱いところを発見されては何度となく探られて、せっかく整えた呼吸は数分ももたずに切れ切れになった。
店長に触れる余裕もなく、ただ与えられる刺激にうっかり後悔しそうな声が出るのをやり過ごしているだけで精一杯で―それでも、何度かはでかい声を上げてしまった。
何だかすごく、悔しい。
「店長っ…何でそんなに嬉しそう、なんですかっ」
半ば悲鳴に近い質問に、店長はきょとんとした顔をする。何を今更、というふうに。
「Sだから?」
と答えた。
ああ、Sなんだ…だったら仕方ないか、と納得しそうになった自分にツッコミを入れていると、ハーフパンツのファスナーが下ろされる音がして我に返った。
「あっ、まっ…!!」
「待ちませんって。」
すっかり張り詰めた場所を布越しにやんわりと撫でられると、もうそれだけで力が抜けた。
誰かに触られたのは半年以上前のことだ。自分の意識しないところから与えられる感触に、ぞわぞわと鳥肌が立つ。
腕をさすっていると、店長もそれに気付いたようだった。
「気持ち、悪いか?」
「…いえ」
「鳥肌すごいし。やめとくか」
何と言っていいか分からず、首を振る。
「乃木。あのな、無茶はしたくねえんだ。だから正直に言ってくれないと、俺たま〜に空気読めないからさ。」
「違います」
もう、喋りたくなかった。息は恥ずかしい程上がっているし、顔は赤いし涙目だし、一番弱い場所は店長の手の中にあって、それは今もテンションの高いままで…そのことにも驚いていて。
しかも、オレをとことん追い詰めている張本人はどんどん冷静になっていく。真剣な顔をこちらに向けないでほしい。目がキラキラしていて、ちょっと―怖い。
頭の中はもう、めちゃくちゃだった。何だ、これ。
店長の首を力づくで捕まえる。思い切り引き倒して、ベッドに倒れこんだ。それで精一杯だった。
突発的なことに弱い店長が、目を丸くしてこちらを見上げている。
「はやく、してくださいっ」
もう、そう言うことしか出来なかった。

55.夜明け(下) へ続く