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55.夜明け(上) ※BL要素のあるお話です
2009.01.12(Mon)
海の風景を撮れたらと、一眼レフカメラを持ってきた。学生以来触っておらず、昨夜帰宅してからメンテナンスをしてみたら、少し錆が出ていた。
“一年間使わなかったものはその後使用しないから捨てても良い”という話を聞いたことがあるが、結局手放すことなく二年間持っていた。物に殆ど執着しない自分だから、それはとても珍しいことだ。写真は、今でも好きだ。
シャッターはきちんと下りたし、レンズも本体の中も埃はあまり付いていなかった。だから軽く錆取りをして露光計の電池を換え、一泊分の服の入った鞄の中に入れた。
車のエンジン音が聞こえて、着信が鳴る。古アパートのガスの元栓をもう一度見直して、玄関に向かった。
店長の交友関係は広いらしい。よく飲み歩きをすると聞いているし、喫茶店の休憩時間にはメールチェックを欠かさない。以前絵文字(しかも動く)付きのメールを店長から貰ったときには、あまりの華やかさにのけぞった。
その友人知人の一人に海辺に別荘を持つ人物が居て、店長はそれを借りた。そして“週末に恋人になる”宣言をして四週目、海辺で一泊しないかとオレに言った。
学生でもないのに男同士で外泊するのは初めてのことだった。戸惑ったが、バイトの予定をチェックして、「分かりました」と答えた。
先週のことを思い出すとお互いに無口になる。
あのときバイト先からの電話が終って、ソファに戻ると店長は困った顔をしていた。その顔を見てオレも困ったことになった、と思っていたら、
「…えーと、何か、ゴメン」
と謝られた。
先に仕掛けたのはこちらの方だったのだが、「いいえ」とだけ答えた。別に謝られるようなことをされた覚えはない。
すると、店長は深い溜め息を一つついて、ソファから立ち上がって行った。そして、流しに積まれた食器を洗い始めた。
…嫌だとは、思わなかった。混乱と緊張で心臓は妙に高鳴ったけれど、それでも気持ち悪いなどとは感じなかった。
ただ、視線が絡まって、胸がキリキリと締め付けられるようなあの感覚が、どういった理由によるものなのかがよく分からなかった。…ふと思いついた考えも、首を振って取り消した。
旅行らしい旅行は何年ぶりだろうか。修学旅行以来かも知れない。思えば修学旅行で初めて島を離れたときに、オレは家業を継ぐまで本島で生活することを決めていたのかも知れない。
別に都会に憧れていたわけじゃない。島が嫌いだったわけじゃない。ただ、外の世界を知りたかった。
店長に車に乗せてもらい、走り出す。しばらくしてコンビニがあったので停めてもらった。
ここ数日掛け持ちでやっているバイトの繁忙期に入って、残業が続いていた。そのせいでフィルムを買いに行けなかったのだ。
店の棚を見るとカメラのフィルムは追いやられていて、数個しか置いていなかった。最近はデジカメが主流だから、そう遠くない未来、フィルムカメラは使えなくなってしまうのかもしれない。
それも、仕方ないことなんだろう。
海に着くと店長がサーフィンの基本を教えてくれた。砂の上で数十分の準備運動とレクチャーを受け、そのあと一時間ほど海の中で教えてもらった。けれど、初心者で―しかもスポーツらしいスポーツをやったことのない自分が、最初から波に乗ることは出来なかった。
店長に自由に遊んでほしい気持ちと、寝不足もあって疲れが出て来たので、ことわって別行動をさせてもらうことにした。
ウェットスーツを脱いで適当に身体を拭き、持ってきていたパーカーを羽織る。砂の上に座り込み、カメラを取り出した。
海は、少し灰色がかっていた。波も高めで、雨の気配が近いことが分かる。レンズのフィルターを通して眺めると、殆ど人の居ない海岸線は静かだった。
ゆるい波に上手く乗れず、店長はボードに腹這いになっている。スーツを着ているとはいえ、今日は水が冷たい。よくああやって長時間泳いでいられるものだ。
店長がボードを岸に向けた。背中から先程より大きめの波がきている。
顔は沖から向き直り、まっすぐ砂浜を見ている。
波がボードをとらえて、滑り落ちるように岸へ戻され始めた。
両腕の筋肉が張り、上半身を持ち上げる。
立ち上がろうとしている。思わず息を詰める。カメラを構えた。
今度は見事に成功し、店長のボードは波に乗っていた。立ち上がりバランスを取れてしまえば後は難しくないらしく、スイスイと向きを変えて楽しんでいる。数枚それを撮る。望遠レンズも持ってくれば、表情までくっきりした写真になっただろう。
そうしていると、店長がこちらに気付いた。波の上でボードをひねるのをやめ、こちらに向かってピースする。その顔は逆光でも分かるくらいに、満開の笑顔だった。店長は、笑顔が明るい。誰もが安心出来るような笑い方をするからつい、つられてしまいそうになる。
その途端、ぐらり、と傾いた店長に、「あ」と声が出る。
バシャン。大きな水音が響くと、店長の姿が海に消えた。
レンズ越しに見ていたその光景に呆気に取られる。反射的に数回切ってしまったシャッターは、今の場面をしっかり残してしまっただろう。笑いが込み上げてくる。
昔から、シャッターを切った瞬間に“良い写真”はすぐに分かる。久しぶりにその感覚が蘇って、心がくすぐったく感じた。
島を出てから、持ってきたカメラは結局一度も使っていなかった。だからこんな気持ちも、ここに連れてきてもらわなければ忘れたままだっただろう。嬉しかった。
店長が海から顔を出し、ボードに寄りかかる。手を振ると、ちょっと照れたようにはにかんで、それから嬉しそうに振り返してきた。
少しして別荘に戻ると、軽い霧雨が降りだした。元々灰色の海だったから、ちょうど戻った頃に降りだしてホッとしたくらいだ。
寒い寒いと呟いて(やっぱり寒かったのだ)店長は片付けもそこそこにシャワーを浴びに行った。 別荘はガランとしていて雰囲気が自分の部屋に似ている。もちろん広さは比べようもない。
掃出し窓を開けると、さっきまで居た海が見えた。ますます時化ってきたようで薄暗いが、晴れた日ならば広い水平線いっぱいの夕暮れも見られただろう。良い別荘だ。
簡易冷蔵庫に買ってきたものを入れる。夜はバーベキューにしようと、店長が用意してくれたものだ。気の回る人だと思う。
ビールがいくつかと、赤ワイン。店長は洋酒を好むようで、彼の部屋にあった凝った酒棚の中には、日本酒や焼酎は殆ど見当たらなかった。オレは酒に詳しくないし、うるさくもない。そもそもたくさん飲むと眠くなる性質だから、ビールが数本あればそれで十分だった。
「あー、温まった。乃木も入ってこいよ。オレ、飯の用意始めとくから」
Tシャツに短パンの長身は、三十代前半であることを殆ど感じさせない。少し長めの前髪を普段はきちんとセットして流しているから、風呂上りのざっくりした整え方だと余計に若く見える。この一ヶ月ほどの精神的疲労で少し痩せたらしく、顎が尖ってシャープな印象になった。
この人は女にモテない筈はない。
「乃木?」
「あ」
一瞬ぼーっとしてしまった。潮風で疲れたのかもしれない。
「ありがとうございます。入ってきます」
「おー、タオル洗面台の後ろに置いてあるからなー」
食事の用意を手伝えるようにさっさと風呂から上がると、すでに野菜は洗って切り終えられ、パックの肉と一緒にサイドテーブルに置かれていた。店長はコーヒーを淹れるのは下手だが、料理や配膳の段取りが良い。そもそも、コーヒーを淹れる手際も、オレより店長のほうがずっと上なのだ。にもかかわらず、店長が作ったコーヒーは何故か味が良くない。ここのところがいつまでも謎だ。
食器類と酒を用意していると、店長はホットプレートをテーブルの真ん中に置いた。
この別荘には広いベランダがあるから、雨が降らなければ炭火でバーベキューをするつもりだった。どうやら雨らしいと天気予報であらかじめ分かっていたので、ホットプレートを持参しておいたのだ。これも店長らしい気の配り方だ。
すでにビールを開けている店長は、機嫌良く野菜を焼きにかかる。室内とはいえ、この別荘は海側の壁の殆どが大きな窓になっていて、見晴らしが良い。街とは違う風景に、テンションが上がる気持ちはよく分かる。…オレの顔には出ないらしいが。
「乃木に、写真を撮る趣味があるとは知らなかったなあ。いつからやってんの?」
食べろ食べろと皿にどんどん盛られる肉を片付けながら(すでに胃の容量の六割くらい肉を食べた気がする)、答える。
「中学ぐらいです」
そうだ。確かその頃だった。あのカメラは中古品で、父から誕生日に貰ったものだ。それまで特に何の趣味も持たなかったオレに、父は突然カメラをくれた。ちょっと驚いた。
「中学かあ。じゃあ結構撮るの上手いだろ。本格的にやってた?」
「いえ、そんなことは」
「お前面接のときの履歴書にさ、趣味特技『特になし』って書いただろ。実際趣味やってる時間があるようには見えねえし。だからちょっと心配してたんだよな」
「…」
「怒るなよ」
「怒ってません。カメラに触ったのは数年ぶりです。ですから今は無趣味です」
「何で今は撮ってないんだ?」
「時間がなくて」
「あー」
ひとしきり食べて満足した様子で、店長は椅子にもたれながら赤ワインを口にする。
この人はいつも寛いでいるように見える。だから、こちらもリラックス出来る気がする。
「乃木、写真現像したら見せてくれよな。楽しみにしてるからさ」
「…お見せ出来るような出来では」
「いーからいーから。俺、乃木がどんな写真撮るか見てえの」
「?」
店長がこちらをまっすぐに見た。その視線はとても優しくて、思わず目をそらしてしまう。
「お前な、いっつも何にも興味ありませんって顔してるだろ。いや、自覚してるしてないは別にして、俺にはそう見えるわけ。
だけど、人間って何も好きなもんなくて、生きて行ける訳がないと俺は思ってるからさ。だからお前には何があるのかなって、気になるんだ」
『心の拠り所なしに、人は生きてはいけない』
…懐かしい、言葉だった。
「…昔、同じようなことを言われたことがあります」
「へえ。誰?」
「父に」
「おっ、気が合うなぁ親父さん」
佑介。お前の目には何が映っている?
父さんに見せてほしい。
このカメラで、お前が好きなものを、撮っておいで。
あの頃の、オレは。学校では黙々と勉強して、部活は強制的にどこかに所属しなくてはいけなかったが、興味を持つことが出来ず結局幽霊部員になり、そのせいで友人も少ないままだった。
帰宅すれば家の仕事を淡々と手伝い、夜には宿題を済ませて、それで終わりだった。
島には娯楽らしい娯楽なんて殆どなかったけれど、それでも同級生たちは遊ぶことに夢中だった。自分の趣味を楽しんでいた。
けれど、オレにはそれが何かが分からなかった。
…少し、息苦しかった。
そんな年の誕生日に、父はカメラをくれた。クラシックなシロモノで、使いこなすまでには時間がかかった。ピントを合わせるのも天気によって露出を変えるのも、三脚の使い方も、父から教わった。父もカメラが好きだったのだ。
やがて一人で扱えるようになってからは、島のいろんなところに持って行ってシャッターを切った。
人。森。海。川。街並み。生き物。いろんなものを撮った。
出来の良い写真だけをファイルにまとめて、量が溜まれば父に手渡した。父はそれを、目を細めて見ていたように思う。
その習慣は、高校卒業まで続いた。
「…忘れていました。父からカメラをもらって言われたことも、撮っていた理由も」
「理由って?」
「オレ、昔から口下手で、顔にも出ない性質で。だけど写真は、黙ってても見てもらえた。嬉しかったんです。だから、やめられなかった」
何かを伝えたい気持ち。誰かに感じた思い。上手く言えないし表現出来ない自分が歯がゆくてたまらなかった。だからなおさら、そんな思いをするのが嫌で、人と付き合うことを避けていた。どうせ伝えられないのだから―と、考えることすら、やめようとしていた。
そんな苦しさを、カメラは救ってくれた。
「…お前の親父さんは、お前が思ってること、ちゃんと分かってたんだな」
「…そう、なんでしょうか」
「そーだよ。仏頂面で困ってるお前に、カメラで気持ちを表現してみろって、チャンスくれたんじゃないか。お前が苦しいって思ってたの、見抜いてたんだよ。すっげぇ親父さんだな」
…そうだったのだろうか?
高校を卒業して、父親に撮った写真を見せることをやめた。
何故か、島の風景の中に撮りたいものがなくなったからだ。撮ることは続けていたが、撮っても撮っても気に入ったものが出来なかった。…悔しくて、苦しかった。
島を出ることを決めたのは、その頃だった。家業を手伝いながら毎日毎日バイトをして、ただひたすら金を貯めていた。数年間でまとまった金を手にすると、半分は父母に残し、もう半分で島を出た。家出同然だった。
技術はあったから、気に入らなくても美しい写真は何枚でも撮れた。けれど、それを父親に見せることはどうしても出来なかった。そして、島の全てのものに興味を失っていく、自分が怖かった。
55.夜明け(中) へ続く
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